LOGIN「その前に送った言葉もあるよ」
紬は自分のスマートフォンをつけ、直人に差し出した。彩香が切り取って送った文のすぐ上には、担当編集部に非公開での検討を求めるという言葉が残っていた。トーク画面をさらに上へ送れば、その前に送った原本の写真も出てくる。
直人は画面を読んでも、自分のスマートフォンを引っ込めなかった。
「彩香は、これを外に広めるって言われたように受け取ったんだよ」
「編集部に提出するって書いたじゃない」
「受け取った人がそう感じたって言ってるんだから」
紬は椅子から立ち上がった。絵を見せようと前へ出しておいた紙が腕に引っかかり、床に滑り落ちた。直人が先にかがんで拾ってくれた。紙は順番をそろえず、まとめて渡された。
「こういうのは話して解決しなよ。文字で送るから、お互い誤解するんだ」
「今日会って話したよ」
「もっと穏やかに」
「絵を使った経緯を教えてほしいって言ったの。これ以上どう穏やかに言えばいいの?」
直人は答えず、スケッチブックの表紙を見た。紬は、原本を保管しているのは自分だということから説明し直さなければならないと思うと疲れた。けれど、彼を絵も見ないまま出ていかせたくはなかった。
「あなたもこれ、知ってるよ」
「知ってるって言っただろ」
「じゃあ誰が描いたかも知ってるじゃない」
直人は少し顔を上げた。
「君が描いたよ」
答えがあまりにあっさり出てきたので、紬はすぐに次の言葉を継げなかった。直人がもう一度スマートフォンを取る前に、紙を1枚、彼の前に広げた。
「それを彩香さんに言って」
「それが今、何の役に立つんだよ」
「私が向こうの資料を持っていったみたいに言ってるじゃない。そうじゃないって言って」
直人は原稿を見下ろし、紙をきれいにそろえた。横には彩香の紹介資料が重なっていた。彼はそちらを上に載せた。
「昔の習作の話と、今出る作品の話は別だよ。彩香が新しく作った部分もあるだろ」
「私、そこまで自分のものだって言った?」
「会社がこれをどう受け取るかって話だよ。復帰直前に、よその奥さんが現れて、自分の名前を入れろって言うんだから」
紬は口を開き、閉じた。「よその奥さん」という言葉が、直人の口から出た。今、彼の前に立っている人間を何と説明すればいいのか、一瞬わからなくなった。
「今、私が誰の妻かなんて、どうして出てくるの」
「人はそう見るから」
「あなたまでそんなふうに言ったら、私は誰に……」
直人は手に持ったスマートフォンを見下ろした。振動していた。彼は今日これ以上話してもけんかになるだけだと言い、部屋を出た。紬は後を追わず、机の上の紹介資料を横へどけた。
原本の最初のページには自分の名前があった。名前の横を手で押さえて伸ばしても、古い紙の折り跡は残った。
月曜日の午前、大学時代に同じ集まりにいた人からメッセージが来た。
[これ、もしかしてあなたのこと?]
短い文の後に画像が何枚かついていた。彩香の復帰を知らせる業界のトークグループから回ってきたという。紬は最初、自分が送った絵だとわかっても、どうしてそこに入っているのか理解できなかった。
月曜日の昼までにお返事がなければ、原本と今日お話しした内容も併せて提出します。
切り取られた吹き出しの下には説明が添えられていた。昔の共同資料を自分の単独作品だと主張する人が、復帰の日程を前に作家へ圧力をかけているという内容だった。送信者のプロフィール写真はぼかされていたが、有名作家の配偶者という言葉は消されていなかった。
次の画像には『水のほとり』のイベント写真があった。客席に座る紬と美佐子に小さな丸がつけられている。
紬は写真を拡大した。手首のサポーターを隠そうと袖を下ろしていた瞬間だった。カメラのほうを見てもいない自分の顔が、どんな説明より先に人々へ伝わっていた。
同じ集まりにいた人に返事を書いた。
[私が送ったメッセージで合ってる。前の部分が抜けているの]
すぐに全体のやり取りとスケッチブックの表紙を送った。どうして連絡したのか説明する文を書き足していると、相手から返事が来た。
[じゃあ、あの話は間違ってるね。とりあえず私に送ってきた人には、そう伝えるよ]
紬はありがとうと書いた。ただ、その人が情報の出どころまでたどって訂正できるわけではなかった。どこから広まったのか尋ねたが、何度も転送された画像なのでよくわからないと返ってきた。
彩香の宣伝ページにも短い文章が上がっていた。
昔、一緒に確認した練習用の資料について見解の相違があり、制作会社と経緯を確認しているという内容だった。誰の名前も書いていなかったが、下についたコメントはすでに別の話をしていた。
公開された絵を見て線だけなぞり直し、自分の原本だって言ってるんじゃないの。
有名な夫がいると、自分も作家だと思うのかな。
紬は画面を送っていて手を止めた。紙に鉛筆で残っている手が、今では色のついた絵を見てまねして描いたものになっていた。
その間には別のコメントもあった。本当に昔の原稿なら、まず時期を確認すべきではないかというものだった。切り取られたやり取りだけでは判断しにくい、という言葉も見えた。紬はそれを読んで初めて、自分が息を止めたまま画面を見ていたと気づいた。
原本を広げて見せればいいと思った。だが、1人に送る写真と公開ページに載せる資料は違う。原稿の余白には講評会の人たちの名前と、当時の連絡先が残っていた。
紬は必要な部分だけコピーしたファイルを作った。名前と番号を隠している間も、新しいコメントの通知がついた。悪いことをしたわけではないと説明するのに、どうしてこんなに時間がかかるのかわからなかった。
個人のアカウントで短い返信を残した。
該当するネームを描いた者です。公開された試し読みを見て新しく描いた絵ではありません。原本とやり取りの全体を保管しており、担当窓口に確認をお願いする予定です。
公開した返信には、原稿の一部だけを添えた。人々の連絡先を消したページだった。資料をもっと見る必要があると言う人もいれば、当事者同士で解決するようにと言う人もいた。その返信だけで、すでに転送された写真の説明が変わるわけではなかった。
紬は彩香に電話をかけた。呼び出し音が最後まで鳴ったが、出なかった。トーク画面に、一部を切り取られたメッセージが広まっていると書き、原本は公開された試し読みをまねして描いたものではないと明らかにしてほしいと頼んだ。
既読がついてから、ずいぶんたって返事が来た。
[私はあなたの名前を公表したことはないわ。確認中だって書いたでしょう。私も会社と話しているから、少し待って]
紬は画面を見て尋ねた。
[私が彩香さんの絵をまねして描いたわけではないと、言ってください]
そのメッセージに返事は来なかった。
昼を過ぎて美佐子から電話が来た。紬が、何を聞いたのかと母に尋ねるより先に、受話口の向こうからため息が聞こえた。
「彩香って人と何かあったの?」
「誰が言ったの?」
「写真が出回ってるじゃない。私も一緒に写ってるのに。直人さんは知ってるの?」
紬は机の上の原稿を見た。母に見せようと持っていき、取り出すこともできなかったタブレットがその隣にあった。
「私が昔描いたものを、その人が使ったの。だから確認してほしいって言った」
「そこまで同じものを使ったの?」
「うん。同じ場面だよ」
「でも向こうでは、あんたがまねしたって言ってるんでしょう」
「お母さん、紙の原本は私が持ってるの」
美佐子は少し黙った。紬は母がどんな資料を見せてほしいと言うか待った。スケッチブックを写真で送ろうかと言いかけたとき、美佐子が先に尋ねた。
「直人さんは何て?」
「今、私の絵の話をしてるじゃない」
「私にどれだけわかるっていうの。その仕事を知ってる人が見ないと」
「直人さんも、私が描いたって知ってる」
「だったら旦那さんに任せなさい。あんたが出ていって争ったら、あの人まで困るでしょう」
紬は机の横に立てていたコピーを横にした。母は絵を見せてほしいと言う代わりに、直人が何と言ったかを先に聞いた。
「娘婿が困るのは心配なの?」
美佐子が黙った。紬も自分がそんな質問をしたことに少し驚いた。だが、もう口に出した言葉をなかったことにしたくはなかった。
「私の顔が出回ってるんだよ、お母さん」
「だから静かに解決しなさいって言ってるの。あんたのことを考えてないわけがないでしょう」
「私がやってないことを、やったって言われてるのに」
「とにかく少し我慢しなさい。直人さんがうまく話してくれるでしょう」
紬は今はこれ以上話せないと言った。美佐子が何か言い足す前に電話を切り、スマートフォンを机に置いた。本にサインをもらったというメッセージの下に、母からの不在着信がまたたまった。
紬はもう一度電話に出る代わりに、制作会社のホームページを開いた。彩香が送ってくれなかった連絡先を、自分で探さなければならなかった。広報への問い合わせと採用応募の間に、権利に関する問い合わせ先のアドレスが小さく書かれていた。
アドレスをコピーし、新規メールの宛先欄に貼りつけた。件名はまだ書かなかった。
夕方帰ってきた直人は、紬の公開した返信をすでに見ていた。彼はバッグを食卓に置くなり、なぜコメントを書いたのかと尋ねた。紬は原稿をそのまま持って出た。
「私がまねして描いたって言われてるから」
「会社が確認してるじゃないか」
「その会社は私に何も聞いてないよ」
直人はコートを脱ぎながら、今から連絡して尋ねると言った。紬は彼の腕からコートを受け取らず、紙を食卓に置いた。
「先にこれを見て」
彼は椅子を引かず、立ったまま絵を見下ろした。紬は写真を拡大することも、話の全体を説明し直すこともしなかった。修正用の紙を持ち上げ、最初に描いた手を見えるようにした。
「この手、あなたが直してって言ったよね」
直人は紙を見てから顔を上げた。
「指が1本多いって。覚えてない?」
「覚えてる」
「あのとき私が描いてたものでしょう」
「そうだった」
紬はスケッチブックの横に彩香の絵を置いた。バッグの持ち手の外に、爪が1つ余分に出ていた。直人の視線がそこで止まった。
「これを見ても、私が彩香さんのをまねして描いたことになるの?」
「誰がそんなことを言ったか知らないけど、俺までそう言ったみたいに決めつけないでよ」
「だから、違うって言ってほしいの」
「彩香が持っていったファイルに、君の絵があった可能性はあるよ。でも、それを使わないでって言ったことはないだろ」
「色の練習をしてみてって言ったの。連載していいなんて言ってない」
「あのとき、本当にそこまではっきり言ったかどうか、どうしてわかるんだよ」
紬は、さらに探すべき資料を考えなかった。もう、覚えていないから信じられないのではない。それだけははっきりしていた。直人は自分が修正するように言った手を見ても、原稿を戻していた。
「絵は私が描いた。あなたもそれを知ってるって言ったじゃない」
「今出る作品を、君の作品だって言えってこと?」
「私が作った場面まで、彩香さんのものだとは言わないで」
直人は彩香の紹介資料を取り、原本の上に載せた。一番上に篠原彩香という名前が見えるよう、紙をきれいにそろえた。
「それは彩香の作品だよ」
紬が目を開けると、廊下の先に夫の靴が見えた。昨夜は帰ってくる音を聞かなかった。ドアを開けたままの小さな部屋で体を起こすと、リビングにいた直人がシャツの袖を引きながら尋ねた。「昨日、電話してたね」「うん」紬はベッドの縁に腰掛け、床に足を下ろした。直人が部屋の入口に近づくと、膝に置いていた手を開いた。「昨日、病院に電話したの。食事もあまり取れないし、体が……」「病院は何て?」「様子を見て、また連絡するようにって。でも、一人だと……」直人のスマートフォンが鳴った。彼は画面に目を落とした。「ちょっと待って。もう車が来た」シャツのボタンを留めかけの手で電話に出て、スマートフォンを肩と耳の間に挟んだ。「はい、今下ります。5分で。資料は持っています」紬はスリッパを履いた。電話が終わるまで待っていたが、直人は折り畳んだイベントの資料を先に鞄へしまった。7月9日、水曜日。用紙の一番上には、今日の日付が大きく記されていた。「授賞式は夜じゃないの?」「昼から撮影と対談の準備もあるんだ。今日、終わったら連絡する。打ち上げもあるから」「遅くなるって言ってたね」直人は鞄を持ち上げながら、妻のコップを脇へ押しやった。「ちゃんと食べておけよ。昨日頼んだもの、残ってるだろ」「さっきの話、帰ってきたら聞いてくれる?」「あ
直人は引き出しを開け、ネクタイを探していた。必要な色を言わず、あのとき締めたものとしか言わないので、紬にはどれを指しているかわからなかった。リビングから戻った彼がシャツをベッドに広げると、袖口が彼女のバッグに引っかかった。「検査に行くときのバッグ、別のところに置けない?」紬はバッグを椅子の横へ移した。中の書類は取り出さなかった。前日に診察を受けて帰宅し、入れておいたままだった。7月8日の朝だった。直人は翌日の授賞式の動線を確認しながら、今日もリハーサルと関係者との約束があると言った。紬が食卓に置いた水の入ったコップを持つと、彼は遅れて彼女のほうを見た。「明日は行けそう?」「行けないと思う」「まだそんなに具合が悪いの?」「うん」直人はそこでようやく、しばらく彼女を見た。紬はカップを食卓に置いて待った。どこがどんなふうに悪いのか尋ねられたら、前日に聞いた話から伝えればいいと思った。「じゃあ家で休んで。イベントが長引いたら座っているのもつらいだろうし」彼は出席者を確認する画面に戻った。家族席に名前を書く欄が見えて、消えた。紬は誰に連絡しているのか尋ねなかった。自分が行けない席に別の人を座らせることまで確かめたくなかった。「夕食は?」「今日は外で食べる。明日も早く帰るのは難しいと思う」紬はうなずいた。夫はまたネクタイについて尋ねた。彼女が知っているのは、引き出しのどの段にネクタイが入っているかまでだった。「一番下の段にあるよ。そこで探して」直人は引き出しを強く閉め、また開けた。しばらくして見つかったとも言わず、スマートフ
青い印のついた原稿を数えながら、紬は17番目で手を止めた。前に数えた束をもう一度数えていた。紙をすべて床に広げれば一目で見えるだろうが、かがんで立ち上がることを何度できるかわからなかった。彼女は机の上に5編ずつだけ置くことにした。順番を決めた束は左に、まだ確かめていないものは右に置いた。原稿を整理する方法まで、昔と同じである必要はなかった。6月29日だった。窓の外ではエアコンの室外機の音がずっと聞こえていた。紬は風が直接当たらないよう椅子の向きを変え、真帆から受け取った撮影データを開いた。紙に残った場面と画面に表示された場面を並べて確認できた。6月も診察は続いた。治療を受けた後に体調が悪くなって次の投薬を調整したこともあり、食事が難しかったり痛みが強くなったりして予定の外来より先に連絡した日もあった。紬は調子のいい日にできることをまとめて終わらせようとし、翌日ほとんどベッドから起きられなくなってからは、時間を短く分けた。今日は午前中に原稿の前半だけを見るつもりだった。真帆と会う午後までに全部終えなければならないとは、誰にも言っていない。立ち上がって休んでいる間は、作業一覧の印が増えなくてもよかった。最初の束を開くと、雨上がりのバス停が出てきた。女が濡れたベンチの一席を拭く最初のコマだった。紬はその絵を前にして、しばらくほかのページをめくらなかった。見慣れた場面の始まりと、自分の名前が同じ一覧に書かれていた。その後に入れる原稿は一度には決めなかった。カップを洗いながら窓のほうを見る女の話は少し前に、降りる場所を通り過ぎて花屋に入る話はその後に置いた。1人でパンを食べる女と服を選ぶ女が続くと、2編の間に別の季節の場面を挟んだ。女が同じ場所に立ち止まったままの人として読まれてほしくなかった。戻り、出かけ、何もしない日もあったのだから。紬は新しいセリフを書く代わりに、すでに描いた場面の間隔を見た。数年前に描いた紙には、当時の日付が余白に残っていた。最近1コマを変えた原稿もあった。紬は修正した日付と変えた部分を作業一覧に書き足した。元の絵と修正後の絵を同じファイルだと取り違えないよう、真帆が求めた印だった。病院へ行った日の場面は、その日以降に描いたものだった。春に書き留めたメモをもとに、後から構図を直した場面には、その時期も残した。紬は実際に経験したことと
5月7日の午後、紬は入院用バッグを横に立て、改めて診察を待った。朝に予定していた手続きは変わっていた。体の状態を診てもらい、必要な処置を受け、次の診察を決めるまで、バッグは椅子の横に置いたままだった。職員が予定を確認しながら尋ねた。「次はこの時間に来られますか?」「はい。来られます」紬は手帳に日付を書き、新しい予約を確認した。翌日また病院へ行き、その後の調整を経て5月12日に入院した。荷物を解くと、バッグからしわになった案内が出てきた。先週使うはずだった紙だった。彼女は捨てずに別の書類の下へ入れた。入院中の一日は、検査と診察の時間に合わせて流れた。その合間はベッドに横になって休んだ。直人からファイルの場所を尋ねられると、フォルダーの名前だけを答えた。いつ家に帰るのかという質問には、退院の日はまだわからないと言った。病院でパソコンを使えるかという問いには、答えずにおいた。医師は病気が胃の外まで広がっていると説明した。手術ですべてを取り除くのは難しい状態で、薬物治療を含めた可能な方法を検討しなければならなかった。紬は説明を聞きながら手帳を開き、ペンを置いた。今回はすべてを書こうとせず、先に耳を傾けた。「それでは、手術はしないんですか?」「今確認できている範囲では、手術で取り除く治療を優先するのは難しいです。病気の進行を抑える治療を検討しながら、食事の問題や痛みも併せて調整する必要があります」「何もできないわけではないですよね?」医師は、今できることと、体の状態に合わせて調整すべきことを分けて話した。紬は治療を受けたいと答えた。可能ならいつ始められるかも尋ねた。入院中は、食べられる量や不快な症状を伝えることも治療の一部だった。痛みが少ないと答えれば早く家に帰れる気がして、ついそう答えそうになる癖が残っていて、看護師に尋ねられるたびに紬は少し考えなければならなかった。いつ痛みが強かったか、食べた後に何がつらかったかを話すには時間がかかった。それでも、その言葉を書き留める人がいた。退院の会計をしながら、紬は自分の口座の残高を確認した。個人原稿の前払い金が入ってから初めて支払う入院費だった。金額を確認して支払い、残ったお金で次の診察と移動に使う費用を計算した。家に生活費がいつ入るのか直人に尋ねる必要が減った分、自分の予約を先に書き込めた。退院時に
5月7日の朝、旅行用バッグは玄関に置かれていた。紬は病院から持参するよう言われた書類を確認し、スマートフォンにタクシーの配車画面を表示した。まだ呼び出しボタンは押していなかった。後ろから直人が紙を1枚差し出したからだった。「これ、1行だけ見て」紬は時刻を確かめた。8時55分だった。「もう出ないと」「病院は10時だろ。読むのに1分もかからないよ」彼が持ってきたのは祝いの動画の台本だった。先週資料を送った後、追加撮影用にもう一度直してほしいと依頼が来たという。紬が書いていない文が途中に入っていた。古い原稿から人物のセリフを抜き出し、作家自身の経験であるかのようにつなげた部分だった。「これ、登場人物が言った言葉でしょう」「だからちょっと変だなって。俺が言ったことみたいに変えられない?」「削ればいいよ」「削ったら前の動画と合わないって言ってるだろ」直人は紙の向きを変え、紬のほうへさらに押し出した。紬はスマートフォンを食卓に置き、削る文に印をつけた。出発を遅らせずにできる最後のことだと思った。線を引くと直人は、その後に続ける言葉を尋ねた。「それはあなたがやって。考えてあるんでしょう」「今のまま渡せってこと?」紬はペンを置いた。直人は撮影担当者に電話をかけ、30分以内に送ると言った。紬にできるかどうかも聞かずに交わした約束だった。通話が終わるのを待って紬がバッグを持つと、彼は小さな部屋を指した。「原稿も一緒に開いて見ないと。場面の順番が変わったから」「今日はできないって言ったよ」「入院してもすぐに何かするわけじゃないだろ。受付が少し遅れるだけじゃないの?」「あなたが決めることじゃない」声が大きくなると、直人はリビングの窓のほうを見た。外で聞く人を意識するその動きのせいで、紬は思わず抑えようとした声を、そのままにした。「病院に行かないといけないって、何度言ったと思う? 日付も2回変えたの」「だから今日終わらせてから行けばいいだろ」直人は同じ説明を繰り返しながら、撮影担当者にまた電話をかけた。通話が終われば出かけられると思ったが、終わるたびに別の紙を差し出した。小さな部屋の机には前日に印刷した場面が残っていた。紬は夫がそれを口実にまた引き止めないよう、確認の終わった紙だけを手に取った。パソコンをつけて新しく直すつもりはなかった。リビング
紬は返してもらった封筒を机の引き出しの奥に入れた。真帆が保管する原稿の一覧には、その封筒は載っていなかった。一覧を折ってファイルに挟んでも、机の上にはまだたくさんの紙が残っていたので、すぐに必要な病院の案内からバッグに入れた。4月16日の診察には、予約の時刻より少し早く着いた。前の検査資料がきちんと届いているか確かめて座っていると、看護師が最近の食事の量を尋ねた。紬はちゃんと食べていると答えかけ、前日に食べたものを順に話した。口にしてみると、自分で思っていたより少なかった。診察室では検査結果と体の状態を一緒に見た。医師は病気がどこまで広がっているかさらに確認し、治療計画を決めるために入院して評価を受けるよう勧めた。食べる量が減ったことも併せて調べる必要があった。「何日くらいと考えればいいですか?」「検査やお体の状態によって変わることがあります。まず入院して必要な評価を行い、計画をご説明します」紬はカレンダーを開いた。医師が待ってくれる間に、画面に夫の予定が表示されたので、自分の予約を書いた小さな手帳を別に取り出した。4月23日の横には何も書かれていなかった。「その日にしてください」彼女は日付を書き留めた。病院では、それまでの間にも症状が強くなったら、予定日を待たずに連絡するよう言われた。診察室を出ると、真っ先に来週の原稿のことが浮かんだ。紬はメッセージ画面を開こうとした手を止め、入院の持ち物の案内から読んだ。足りないものを書き留め、薬局に寄ってから家に帰った。直人に日付を話したのは、その日の夕方だった。彼はモニターから目を離さず、どのくらいかかるのかと尋ねた。「まだわからないの。検査ももっと必要だし、治療の計画を決めるって」「じゃあ、検査にどれくらい時間がかかるかもわからないの?」「やってみてから決めるんだって」紬はバッグから案内を出し、食卓に置いた。直人は紙を読む代わりに、メッセージで届いた修正依頼を確認した。来週までに渡さなければならない原稿に問題が出たという。登場人物がけんかする理由がわかりにくいという意見だった。「その部分は俺も手を入れてみたんだけど、前後がまた合わなくて」「今回はあなたが整理しないと」直人は笑うように口元を動かした。「急に君が抜けたらどうするんだよ。休むにしても、渡すものは渡してから休まないと」入院して







